日曜の朝に
江戸城富士見櫓
おはようございます。設計担当の高橋です。
日曜日がやってまいりました、2月に入り暦の上では春、突入です。今日は晴天の日曜日になるのでしょうか。
本日は余裕がありますので、先週に引き続き「江戸城の話」をひとつ・・・・
お城のシンボル天守の話を終え城内にある建物のことに話は移ります。
天守以外のお城の建物は?・・・・といいますと御殿・門・櫓などがあります。
まずは櫓の話を
現在、江戸城の櫓は3基現存しています。有名な二重橋の奥にある伏見櫓、後は富士見櫓と桜田巽櫓があります。
その中で今日は富士見櫓の話をします。
上の写真を見ても分かる通り、屋根が3つに重なっている3階建ての高層建築なのです。実際天守なき後の江戸城で天守の代用とされていたとも・・・
現在の富士見櫓は万治2年(1657年)に再建された櫓です。
ちなみに天守は明暦3年(1657年)に焼失していて、まずは簡単な方を建築しようかと、いった感じで建てたのでしょうか・・・
この富士見櫓、石垣に高さが約14.5m建物の高さ約15.5mあります。
この規模は弘前城天守や宇和島城天守・丸亀城天守と同じ大きさがあり大したものなのです。
そんな建物がこの東京・江戸城跡にあったこと知っていました?
この富士見櫓は目につきにくいところにありしかも皇居内にあるので国指定の重要文化財になっていないので目立たないのかもしれません。
ただし近くに行ってみることはできます。是非注目してください。
ということで、今日はこの辺で失礼いたします。
よい日曜日をお過ごしください。
弘前城天守
日曜の朝に
おはようございます。設計担当の高橋です。
今日は晴天の朝、冬の朝。今日は寒いのかどうか・・・・
昨日は日中も寒かったですねぇ。
先週は仕事があり短い話になりましたが、今日は本題・江戸城の話に参りましょう。
江戸時代前半50年だけの天守が存在したその後は・・・・
今江戸城後には天守台と呼ばれる石垣がありますが、これは明暦の大火後に新たに新築されたものです。ただ、その上には建物は一度も建っていないのです。
それでも、今ある天守台は他の城に比べ、かなり大きいのですが、その前の天守台はもうひと回り大きいのです。
それを想像するだけでも、日本一の城だなと感じます。
天守台行ったことない方ぜひ行ってみてください。東京を内側から見るような気持になれます。
天守の話はこの辺で、次からは江戸城内の話をしていきます。
意外と建物現存しています。そのあたりを・・・・・
それでは今日はこの辺で失礼いたします。
よい日曜日をお過ごしください。
日曜の朝に
おはようございます。設計担当の高橋です。
今朝は朝から仕事をします。
申し訳ありませんが、簡単に済まさせていただきます。
今日は内覧会の受付がありその前に一仕事と・・・・
ですので、本当に簡単ですが、失礼いたします。
よい日曜日をお過ごしください。
日曜の朝に
おはようございます。設計担当の高橋です。
今朝も日差しが部屋に入ってきます。薄雲がかかっていますが晴れの日曜日となるのでしょうか。
自分に体調は徐々にはよくなっているようですが、まだ喉の調子が良くありません。
なかなか風邪が抜けていきませんなぁ〜
今日も本題に入ります、江戸城の話をひとつ・・・・
三つの江戸城天守をひとつづつ説明しましたが、天守の形式
は2つに分けることができます。
家康の慶長度天守は望楼型天守。
秀忠の元和度・家光の寛永度は層塔型天守。
と言うように分類出来ます。
望楼型とは下層部の入母屋屋根の建物に上に望楼を載せたような形状です。
初期の望楼型は下部と上部の平面的な大きさが違い、いかにも、望楼が乗っている形になっているので分かりやすいです。(国宝犬山城天守など)
後期型は上部が平面的に大きくなってきたので層塔型と区別がつきにくくなってきます。
見分けるのには1・2階が同じ大きさの平面になっているのが見分け方といえます。(国宝姫路城など)
もうひとつの層塔型は時代的に新しい形式になります。
また建築史上でいうと、最後の天守形式といえます。
特徴は各階ごと、上に行くに従い床面積が小さくなっていくことです。
思っていたより長くなりそうです、今日はこの辺で、続きはまた次回に・・・
ということで、失礼いたします。
よい日曜日をお過ごしください。
日曜の朝に
おはようございます。設計担当の高橋です。
今日も冬らしい青空の朝、でもまだ本来の寒さではない感じです。
いい天気の日曜日になりそうです。
自分自身はまだのどが痛くなかなか体調が戻りません。
咳き込まなければよいのですが寝つきがつらいです・・・・
先週に引き続き江戸城の話を・・・
前回の家光が建てた江戸城天守は明暦の大火により焼失してしまいました。
それ以降江戸城は天守のない城として現在に至っています。
250年の江戸時代、この前半50年だけに史上最大の天守が存在していたということです。
なぜそのあと建設をしなったかというと、時代が必要としなかったことと、経済的なことが言えます。
群雄割拠の戦国時代を征した徳川家康は数々の建設事業を各大名に請け負わせ資金財力を浪費させてきました。
それも3代将軍家光でほぼ終わり、江戸時代50年経った頃には江戸幕府に対抗する勢力はなくなり、平和な時代において、天守の存在価値が無くなったきたようです。
また建設には、お金がかかるのは事実なので政策的に優先順位をつけると後回しにされてしまったようです。
この江戸城が日本の城郭として最後の天守との言えるでしょうか・・・(幕末に五稜郭などありますが従来と違う城郭ですので)
次回は天守の構造の話でも・・・・
ではこの辺で失礼いたします。
よい日曜日をお過ごしください。
日曜の朝に
寛永度江戸城天守復元図
おはようございます。設計担当の高橋です。
もうひとつ、明けましておめでとうございます。
今年もこの「日曜の朝に」を宜しく可愛がってください。
先週の日曜は仕事納めの前日、今日は明日が仕事始めとなります。
先週、体調がすぐれないことプログで伝えていましたが1週間経った現在ものどが痛い、目にも来て年明け早々寝起きに目ヤニで目が明かない状況など、具合が良くない状況が続いています。なかなか風邪が抜けません。
と言う状況ですが今年一発なので本題に入ります。
今まで江戸城天守家康の天守・秀忠の天守と説明しました。
今回は家光の天守「寛永度江戸城天守」のことを・・・・
この天守今までの白い天守とは違い黒い色を取り入れた色彩のお城です。(復元図参照ください)
この天守、寛永15年(1638)竣工、明暦3年(1657)明暦江戸大火により焼失の20年弱、江戸にあったことになります。この天守が一番資料があり、以前から江戸城天守はこの色だと思っていた方が多いかと存じます。
江戸城は白亜の城というのはその後に出て来たことなのです。
その寛永度江戸城天守は五層五階の層塔型天守で屋根が銅板葺き、外壁にも銅板を張ったのが今までにない意匠となります。
規模は秀忠の元和度天守を解体し、改造加え組立直したものなので同じになります。
今日のところは寛永度江戸城天守の説明までといたしましょう。次回をお楽しみに。
今日はこの辺で失礼いたします。
よい日曜日をお過ごしください。
日曜の朝に
おはようございます。設計担当の高橋です。
外は霜が降った様子、冬の朝です。
今日は冬らしい寒さです。
またここにきて体がだるい、喉・鼻の奥の粘膜に違和感が風邪だ!今日は体を休める日曜日となりそうです。
日曜日の朝も軽く切り上げ静養します。
本題は来年になりますご勘弁を・・・
ということで今日はこの辺で失礼いたします。
来年も「日曜の朝に」よろしくお願いいたします。
よい日曜日をお過ごしください。
日曜の朝に
おはようございます。設計担当の高橋です。
とは言っても今ぎりぎりの日曜日、あとちょっとで月曜日になろうとしている時間です。
今日は一日中私用でブログを入力する時間がありませんでした。
仕事ではないのですが、これからに本題に至るところは無理なようなので、簡単にさせていただきます。
昨日今日と家族サービスや親戚行事があり、楽しくあり、慌ただしくありの週末でした。
さあ!いよいよ今年も残り少なくなりました。
今週は仕事は打合せあり、プラン提案はあり、現地調査はありの充実した1週間になります。楽しく励んで進めるぞ!
ということで今日はこの辺で失礼いたします。
残り少ないですがよい日曜日をお過ごしください。
日曜の朝に
元和度江戸城天守復元図
おはようございます。設計担当の高橋です。
今朝は灰色の空、見た目も気温も寒々とした朝です。
この後天気はどうなるのか・・・
今日も先週に引き続き江戸城の話と参りましょう。
2代将軍秀忠によって建てられた天守は「元和度江戸城天守」と呼ばれています。元和(げんなと言います)の年号に建てたのでこの呼び名なのです。
前置きはそこまでとして、この天守建築場所も少し変え、今の現存している天守台とほぼ同じ位置にきました。
この2代目天守はお父さん家康の建てた天守より大きく、徳川時代が継承されたことを全国に示す意味もありました。
まだ世の中は戦国の名残も残っているので反乱がおこらないとは限りません。
徳川幕府は有力な反幕府になりうる、大名にその建築を請け負わせ財力を疲弊させる目的も天守の建替える意義もありました。
この天守、5層5階建、鉛瓦葺き、白漆喰の壁、層塔型天守、高さは石垣含め58.6mの史上最大の天守が元和9年(1623)竣工しました。この天守も白亜の天守のようです。
復元図がありますが、この天守の形は指図という当時の図面がありそれをもとに図面化しているのでかなり事実に近いかと思います。
この天守は14年後寛永14年(1637)に解体されました。その5年前に秀忠は亡くなっています。
ということで今日はこの辺で失礼いたします。
よい日曜日をお過ごしください。
日曜の朝に
慶長度江戸城天守復元図
おはようございます。設計担当の高橋です。
今朝は晴天、日差しがまぶしい!!
さあ!12月となりました!この「日曜の朝に」3年目に入りました。今まで以上にパワーアップした「日曜の朝に」を皆様にお届けしま・・・・すと、持ちませんので、今までの通りゆるくやっていきます。
お付き合いのほど・・・・・
ということで今日は時間がありますので、先々週の続き「江戸城シリーズ」とまいります。
前回は江戸城天守は50年の間に3回建てられたとお話ししました。そのまず1回目の天守の話を・・・
この天守「慶長度天守」と呼ばれており、徳川家康によって建築されました。
竣工は慶長12年(1607)5層5階の屋根は鉛葺き、白漆喰塗籠の白亜の天守です。
富士の峰の白さと比較された文があるぐらいなので、当時としては斬新な天守であったと思われます。
それまでは豊臣時代は黒い天守が主流に対し、家康は新しい時代を象徴し、世の中に示すべく白い天守を建築したのだと。
今年修復が終わった姫路城が白い天守の現存のもの、また黒い天守は松本城や松江城の天守といえます。
復元図を載せますが、慶長度天守記録が少なく一番はっきりしていないのです。
この慶長天守は元和8年(1622)解体されました。
家康はこの天守解体の前、1616年に亡くなりました。次に将軍になった徳川秀忠は自分の代になり新たに天守を作り直したわけです。やっぱりお父さんとは違うのだということを世の中に示したかったのかと・・・などと思ったりします。
ということで江戸城の話はここまで。
今日はこの辺で失礼いたします。
よい日曜日をお過ごしください。